◆子育て相談 ◆家族関係コンサルティング  自分らしい生き方探し・・・メンタルトレーニング、カウンセリング、インナーチャイルドセラピー
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父と祖母を見送って、
私はたくさんのことを学びました。


私という人間が
生まれ持ち合わせた課題

それはひとりでクリアするものではなく
父との関係において
母との関係において
きょうだいとの関係において
パートナーとの関係において
子との関係において
クリアしていくものなんです。


この生まれ持ち合わせた課題は
一本の糸にできた結び目のようなもの。

一本の糸は一人一人。

結び目をほどくために生まれてきているのに、
生きていくうちに
ほどくどころか
小さな結び目が、こじれて重なり合って
大きな結び目になる。

時に隣り合う糸も巻き取んで、
もっと大きな結び目になる。

それが、家族・友人・地域・国というように、
複数の糸を巻き込んだ大きな課題になる。

個人だけではほどききれないような大きな結び目は、
やはり関わった糸たちがせーので
一斉にほどかないと解けない。

だから、それをほどくときは、
関与した魂が近しい場所に生まれてくる。
でも、失敗するともう一度、
条件を再設定して生まれ変わってくる。

壮大なプロジェクト X

父と祖母を見送るときに
今現在生きている人間だけではない
いろいろな人の想いが絡み合って出てきました。


きっと、私たちは
その人たちを含めてチームを組んで、
ミッションを遂行しに生まれてきたんだろうな、
と思ったりするわけです。

誰にも落ち度はありません。

父の死は何かの犠牲とかそういうことではなかった。
彼は彼の人生を生き抜いた。
だってあの時、父は最期に手を振ったのだから。
みなの見守る中で。

曾祖母も、何かの犠牲とかそういうことではなかった。
時を越えて伝えたいことがあっただけ。
曾祖母が越えられなかったあの日を
かわりに私は越えたから。

だから、私は後悔なく
次のミッションに取り組みます。

今、これを読んでいるあなたも
何かのミッションの一員として
生まれてきているんです。

いつまでも、
自分のおかれた立場を
嘆いている暇なんて
ありませんよ。

どんだけその場所が好きなんですか。

はやくそこから出て、
周囲を見回してください。

あなたじゃなきゃ
できないミッションがあるんですよ。


   
  * * * * * * *   
   
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【2016/02/05 10:00】 | 親との関係
【タグ】 下関  メンタルヘルス  カウンセリング    セラピー  
|


父の死からちょうど3年後、
2009年の夏休み最後の日でした。

長男は小2、娘は年長、
末っ子はテシテシ歩きの1歳4か月。

朝9時、母から電話がありました。
おばあさんのの呼吸が浅くなってきている、と。

祖母は、民間の介護施設にいました。

明日は始業式だし、帰ってこなくていいよ、
母はそういいました。

「わかった」と電話を切った後、
思い直して、
子どもたちに明日の始業式の準備をしておくように言いました。
(長男は几帳面なので、宿題は終わっていました)

その間に急いで準備して
母に「今から帰る」と告げました。

母は最初、帰らなくていい、と言っていましたが
汲み取ってくれました。

私の最後の孝行。

車で急いで帰りました。
それでも3時間近くかかります。

昼過ぎに着いて、
直接施設に行きました。
母は、
親戚筋にはまだ連絡はしていませんでした。

連絡をすれば、
ひっきりなしに居室に詰めかけて、
その応対でバタバタしてしまいます。

母と私と子どもたちだけ。

居室は静かでした。
点滴もモニター類も何もついてない。

祖母は穏やかに横たわっていました。

思い出したように顎で浅く呼吸します。
目は閉じていて、意識はありません。

手も足も白く細い。
その手や肩や足を
みんなでさすり、名前を呼びました。


祖母は歌が好きでした。

私が子どもの頃、よく歌ってくれました。

夕やけこやけ、赤とんぼ、
青い目の人形、朧月夜。

いわゆる尋常小學唱歌。

祖母を見送るときは、
私が枕もとで歌ってあげようと
決めていました。

そのことは誰にも言ったことないのに、
母も、祖母の枕元で
これらのうたを歌っていました。

母も
祖母への思いは同じなんだと思いました。

子どもたちも 
「ゆりかごの歌」を一緒に歌いました。

子どもたちは無邪気。

死に近づく祖母を前にして、
屈託なく笑っています。
末っ子はベッドで祖母の足元に座っています。

臨終の場が病院に移る前の時代の風景
そのものです。

子どもたちが笑うと、
祖母は応えるように
細い息を吐きます。

「おおきい おばあちゃん」

名前を呼ぶと、表情がかすかに動きます。

静かに穏やかに。
何にもかえがたい時間。

命が生まれるのと同じくらい尊い。
人はどうして、この時間を
簡単に他人(医療)に渡してしまうんだろう。

3時間くらいそうしていました。

娘がトイレへ行くというので
私がついていきました。

母と長男と末男が残っていました。

「大きいおばあちゃん、息してない」
祖母の呼吸が止まったのに気付いたのは長男でした。

母はその時、目を離していたようで
私が部屋に戻ると、祖母はこときれていました。

職員さんに連絡し、医師を呼んでもらいました。


愛する家族に囲まれて
穏やかに祖母は旅立っていきました。

看護師をした経験から
「大切な祖母は、
こんなふうにして送り出してあげたい」と
思っていた
私の想いがかないました。

命が消える瞬間に
子どもたちが何かを感じてくれたか、
何が残るのかはわかりません。

それでいいと思います。

私が意図して導くなど、遠く及びませんから。

祖母は最後に、次代の子どもたちに
尊い学びの機会を与えてくれました。

いのちのバトンは確かに渡ったと思うよ
おばあちゃん。

この子たちが、あのバトンを胸に
これから自分の人生を駆け抜けていくよ。


いのちは続いていく。
何も終わらない。
かたちを変えて、続いていくんだ。
   
 
(追記)

祖母の夫は、24歳で戦死しました。
はじめての子を妊娠中に召集され、
生まれたばかりだった子(私の父)を一度見せに行って、
そのまま出征し、帰らぬ人となりました。

戦死者は、没した日ばかりがクローズアップされ、
誰も、祖父の誕生日を知りませんでした。

祖母の棺に入れるものを探していて
若い頃の祖父の写真を裏返した時、
母とふたりでびっくりしました。

写真の裏側に書いてあった
祖父の誕生日は
なんと、長男と同じ日だったんです。

あれだけつきっきりで
みんなで 祖母の元にいたのに

祖母が息を引き取る瞬間を見届けたのは
長男ただ一人でした。


生まれ変わりなんて言うつもりはありません。

ただ、
運命に引き裂かれて
夫婦を全うしてやれなかった祖母の人生を
ずっと見てくれていたのかもしれない、と
最後の最後にそのことを
伝えてくれたのかもしれないと
そんなふうに感じました。




私の家族の看取りの物語は
これでひとまず終わります。

最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。



【2016/02/04 10:00】 | 親との関係
【タグ】 下関  メンタルヘルス  カウンセリング    
|
 
 
父を見送ってから半年後
私たちは、福岡から岡山へ引っ越し、
実家へも
かなり近くなりました。

祖母は、施設にいる3年間で
2回、ベッドから転落して骨折をしました。

どちらも、大事には至らず、
痛みもひどくなかったため
私と母は
手術をしない、という方向での
治療をお願いしました。

1度目は病院でリハビリもし、
いきいきとして施設に戻りましたが

2度目はリハビリもできず
そのままの状態で施設に戻りました。

介助でポータブルトイレに降り、
昼間は車いすで食堂に出ていました。

食べることは、変わらず
よく食べていました。
母の差し入れする
好物のかまぼことか和菓子とか喜んでいました。

ベッドで横になりながらも、
唯一の楽しみである茶菓子を食べていたので
いつも手の届くところにお菓子が切れないよう
母は気を遣っていました。


年老いてから、
家族に満足に食べ物を与えられない、
それって
けっこう、遺恨になるんです。

曾祖母の死から、私たちはそれを痛切に学びました。


次第にベッドで寝ていることが多くなりました。

母と私で、
もしもの時のことを話し合ったことがあります。


「  自然に。 」

その一言でした。

自宅に連れて帰れればそれに越したことはないのですが、
それは難しい。
できればこの居室で最後を迎えたい。

病院ではなく。


職員さんに相談したところ、
それはかまわないとのことでした。

ただ、感染症などで治療が必要になる場合は
入院してもらうようになります、とのことでした。



私は、前から考えていることがありました。

そう遠くない未来、祖母を見送る日が来る。

それは子どもたちにとって、
死に触れるまたとない機会になる。


その瞬間を無駄にしないように。


誰にも言ったことないけど、

心の中でずっと考えていました。

  
 

【2016/02/03 10:00】 | 親との関係
|
  
父の容体が悪化したのを聞いて
祖母は施設を外泊させてもらい
戚の家で待機させてもらっていましたが
息子の臨終に、間に合いませんでした。

若干の痴呆症状もあり、目も悪く
足腰も弱くなって、
家で母一人で見ることは難しいだろうと

祖母はそのまま施設にいてもらいました。

運転のできない母は、
タクシーやバスを使って、見舞いに行っていました。

私たちが帰省した時には
一時外出して、実家で過ごしてもらっていました。

そんな祖母は、
父の死から2週間ほどたった頃。

入所後の健康診断で病気の兆候が見つかりました。



「今度はおばあさんがね・・・」

母の生活はまだ手続きなどで
バタバタとしていていました。

渋る祖母を何とか説得して、
内視鏡検査を受けてもらうと。

結果は、やはり病気でした。

90歳の高齢であることを考えると、
もっと前からゆっくり進行していたものが
たまたま今回見つかったという感じでした。

祖母はおなかの調子が悪い、ということもありましたが
食べたいものを食べ、身の周りのことは一人でできていました。
(施設では個室にいました)


どうするか。

母と私の答えは決まっていました。

自然に。
祖母の生活を崩さないことを最優先に。

毎日のように、
近所の方とお茶ごとをしていた祖母にとって
食べることは、楽しみでした。

祖母の楽しみを奪うことがないように。




私の母は働いていたため
学校へ送り出してくれるのも、
家で待ってくれているのも祖母でした。

母方の祖父母は
私がものごごろつく前に他界していたため
お互いに
たった一人のおばあちゃん
たった一人の孫
でした。

身づくろいもきちんとしていて
資生堂の化粧水と乳液を愛用していました。
「肌のお手入れは大事だよ」といつも言われました。

子どもの頃
祖母の脇から覗きこんで見ていたその所作の数々。
今の私を形づくっています。

煮炊き、つくろい、たたみ方、しまい方。

祖母は、朝夕の礼拝も欠かしませんでした。
神棚と、近所の荒神社へ。

何かお願いするわけではく
ただ「ありがとうございます」と。

私は、そんな祖母の姿に
見えないものに手を合わせることを
ごく自然なこととして感じながら成長しました。

母と衝突した時のシェルターは祖母でした。
いつも無条件に味方になってくれました。
私にとっては、もう一人の母のようなものでしたね。

自分の仕事として、
台所へ立つようになったのはいつ頃からかな

中学生の時には、
母のお弁当を毎日詰めていました。

高校生くらいかな?

学校から帰ると
祖母と一緒に台所へ立つようになりました。

おかずを作ったり、
皿洗いはほぼ毎日私がやりました。

言われたわけではなく
祖母も年老いていて、ほっとけなかったんです。

大学受験前の一週間だけ、
お手伝いを休ませてもらったっけ。

いつまでも元気でいてほしい。
そう思っていました。


【2016/02/02 10:00】 | 親との関係
【タグ】 下関  メンタルヘルス  カウンセリング    
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子どもたちの顔を見るため、
いったんオットの実家に帰りました。

時間を置かず、母から連絡がありました。
心拍数が落ちている、と。

病室まで、15~20分くらいかかります。
間に合うかな・・・・と、道を急ぎました。

大急ぎで病室に行くと、親戚が並んで枕元に揃っていました。

主治医と看護師の方が枕元におられます。

私はベッドの足元を回り込んで、
足元の窓際 (一番遠い所)から父を見ました。

ちょうどベッドの頭部が水平に降ろされるところでした。

父が体を傾けながら左手を振っていました。
親戚のおじさんたちの声に
「さよなら」と手を振ったのです。

母が、「お父さん」と小さく呼び掛けています。

モニターの画面は見えませんでした。

主治医が確認します。

医師から告げられたとたん、
皆がすすり泣きました。

私は、それを、
画面の向こう側にいるように見ていました。


「やっと終わった」


父も、母も、私も・・・・。


涙は出ませんでした。


父が亡くなった悲しさよりも
父はやっと解放された。
そんな想いでした。

ふと、後ろを振り返りました。

窓から、見えた景色。

病院の北側に東西にのびる山並み。
青々とした山と病院の間には
田園地帯が広がっています。

よく伸びた稲の葉が風にそよぐ。

その緑一面の風景の中を
山をバックにして一羽の白鷺が飛んでいました。

悠然と。


皆のすすり泣きを背に、
私ひとり窓の外を見ていました。


その白鷺が、
解放された父の魂のように見えて
何とも言えない安堵感を
ひとり 感じていました。



父の命日は10日。
奇しくも、
さまよう影だった人、
父の祖母と同じ命日になりました。

みずから命を絶った曾祖母。
孫の中で、一番かわいがってもらっていた父。

こんなことって、あるんだなあと。


時間がたって思います。
私にとって一番辛かったのは8月9日でした。

明日がくるという実感、それを乗り越えられる自信が
まったくありませんでした。

同じく、
曾祖母は、どんな気持ちで永訣の日を迎えたのだろう。

亡くなったことばかりに目が行って、
その心情を、誰か思いやった人はいただろうか。

何十年か前の、同じ8月の日に。

「いつまで、続くの。 もう 終わらせたい」

私は、死ぬつもりなんてなかったけど
8月9日の、あの虚無に捕らわれていく感覚、
曾祖母も味わったのだろうか。


曾祖母は、あの夕陽を見なかったのかな。
力強く昇ってくる、あの朝日を見なかったのかな。

曾祖母を思いとどまらせるものは、なかったのかな。

あの時 私は歌と太陽に救われた。

「生き抜いて」

もしかしたら、あれは曾祖母のメッセージでもあったのかな。

ふと思いました。


会ったことのないひいおばあちゃん、

私は、ちゃんと9日を乗り越えて10日も11日も迎えたよ。

これからだって、乗り越えるよ。
そんなふうに思いました。




【2016/02/01 10:00】 | 親との関係
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